絵本専門士のえほんのはなし。~その3「おとな向けの絵本」ってなんだろう~
みなさん、こんにちは。絵本専門士の水野有子です。今回は、ここ数年ですっかり市民権を得た「おとな向けの絵本」についてのおはなしです。
私は「おとな向けの絵本」という捉え方に少し違和感があります。絵本は子どもに向けてつくられるものですが、子ども〈だけ〉のものではありません。絵本の洗練されたことばや絵が、かつて子どもだったおとなの心に刺さるということは多々あります。ただ、最初からおとなに向けてのみつくられるのならば、それは絵本の定義から外れる気がするのです。
加えて、「おとなでも楽しめる絵本」という言い方もあまり好みません。「おとな〈でも〉」という付随的・副次的な表現に、「絵本=本来おとなが嗜むに値しないもの」というニュアンスが(意図せずとも)含まれているように感じるからです。私は「おとなも楽しめる」「おとなが楽しむ」などの言い方をしていますが、みなさんはどう思いますか?
「おとながハマった」という意味で最初に話題となったのは、1998年刊の『葉っぱのフレディ-いのちの旅-』(レオ・バスカーリア 作、みらいなな 訳、童話屋)かもしれません。ビジネスパーソン(特に中高年男性)がこぞって買い求めていると全国紙にも取り上げられました。葉の落葉性を通して子どもたちに「生きるとはなにか、死ぬとはどういうことか」を考えるきっかけを与える絵本です。
このような死生観や人生訓、生命の誕生、果ては天地創造など、深いテーマを扱う絵本はたくさんあります。でもそれらはすべて、子どもたちのためにことばや絵の余分を削ぎ落としたもの。それが真理であるからこそおとなの心にも刺さるのであって、「おとなだけが楽しめるもの」であってはいけないと考えます。
例えば『だいじょうぶだいじょうぶ』(いとうひろし 作、講談社、1995年)。外の世界に対して少し臆病な男の子に、おじいちゃんが繰り返し「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と語りかけます。男の子は成長し、年老いて入院したおじいちゃんに「今度は僕の番」と寄り添うというおはなしです。
人生観や老年観を主軸としたこの絵本はおとなの心にとても響く作品ですが、果たして子どもたちには理解されにくいものでしょうか。以前、未就学児にこの絵本の読み聞かせをしたことがありますが、彼らの感想はこの絵本の世界に深く共鳴したものばかりでした。「うちのおじいちゃんも入院したことあるよ」「怪我したけど大丈夫だった」「僕もみんなに大丈夫って言ってあげたい」。やさしいことばと朗らかな絵で構成されるこの絵本は、子どもたちの心にまっすぐ届いていました。「だいじょうぶ」と言ってもらえて安心する。それは年齢に関係のない普遍的な〈おまじない〉だからなのだと思います。
絵本を選ぶ際に「対象年齢」を目安とされる方も多いと思いますが、どれも表記は「○才から」。絵本の対象年齢は、多少の下限はあっても上限はありません。
次回のテーマは、今回の内容を踏まえての【おとなが絵本を読むことについて】です。お楽しみに!